デカルト「我思う故に我あり」の意味。すべてを疑って、最後に残ったもの

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遠くに、友だちの後ろ姿が見えた。手を振りながら駆け寄ったら、まったくの他人だった。
「確かだ」と思っていたのに、間違っていた。こんな経験は、だれにでもあると思います。
夢の中では、どうでしょう。夢を見ている間は、「これは現実だ」と少しも疑わないことがあります。目が覚めて、ようやく「夢だったのか」と気づく。
だとすると、いま「現実だ」と思っているこの瞬間も、本当に夢ではないのでしょうか。「確かだ」と思うことをぜんぶ疑ってみたら、そのあと何が残るのか。
この問いに本気で答えを出そうとしたのが、17世紀の哲学者デカルトです。その答えが、有名な「我思う故に我あり」(ラテン語で cogito, ergo sum)。この記事では、日常の「あれ?」から出発して、その意味をたどります。
「確かだ」と思っていたのに、間違っていた
友だちの後ろ姿のような見間違いや錯覚は、よくあります。目で見たことでも、間違えることがある。
デカルト(1596〜1650)が探していたのは、確実な知識の土台でした。そのためにとったのが、少しでも疑えるものは、確実なものとは認めないという方法です。方法的懐疑と呼ばれます。
スタンフォード哲学百科事典によると、デカルトはまず感覚を疑います。見間違いや錯覚があるからです。
夢の中では、夢だと気づけないことが多い
感覚の間違いは、あとで気づいて直せることが多いものです。「あ、人違いだった」と。
では、気づきにくい間違いはないのか。冒頭の夢がそうです。夢を見ている間は、夢だと気づけないことが多い。デカルトは次に夢を疑います。いま起きていると思っているけれど、夢を見ていないと確実に言い切れる目印はあるのか、と。
自分の頭そのものが、間違うように作られていたら?
簡単な計算を見直して、「これで合っている」と確かめたとします。でも、もし確かめている自分の頭そのものが、間違うように作られていたとしたら。どれだけ見直しても、見直している頭が間違っているのだから、気づけません。
デカルトは、疑いを極限まで進めるために、こんな想定をします。まず、数学のようないちばん単純に見える真理でさえ、疑えるのではないか。そして最後に、強力な欺く者を置きます。力もずる賢さも極みにある存在が、私をいつも騙している、という想定です。
ここまでくると、疑えないものなど残らないように見えます。感覚、夢、数学、欺く者。疑いの階段を、いちばん下まで降りたわけです。
それでも、疑えなかったもの
ところが、ここで不思議なことが起きます。夢の中でも現実でも、「これ、本当かな?」と疑っているとき、私たちは何かを考えています。疑っているのは、だれでしょう。
欺く者が私を騙しているとして、では、騙されている「私」はいるのでしょうか。デカルトは『省察』の第2省察で、こう結論します。欺く者がいたとしても、私が欺かれているなら、私は確かに存在する。そして「私はある、私は存在する」という言い切りは、私が口にするたび、心に思い浮かべるたびに、必ず真になる、と。
騙されている間も、「私」は何かを思っています。思っている「私」は、いる。ここが、疑いの階段のいちばん下の床です。
「ゆえに」は、ほんとうに理屈なの?
「我思う、ゆえに我あり」の「ゆえに」は、理屈に見えます。理屈でつなぐ代表的な形に、三段論法があります。
- 人は、みんな死ぬ。(前提1)
- ソクラテスは、人だ。(前提2)
- だから、ソクラテスは、死ぬ。(結論)
2つの前提から結論を出す形です。「我思う、ゆえに我あり」も、同じ形に見えます。
- 思うものは、みんな存在する。(前提1)
- 私は、思っている。(前提2)
- だから、私は、存在する。(結論)
ところが、デカルト自身は、『省察』への反論に答えた文章(第二答弁)で、こう述べています。思考から存在を三段論法で引き出すのではない。単純な直観によって、自明なものとして認識するのだ、と。
では、「理屈ではない」と言い切れるのか。ここは研究者の間でも議論がある所です。たとえば研究者の一人のウィルソンは、三段論法をやめることと、推論そのものをやめることは別だと指摘しています。直観なのか、推論なのか。デカルト自身は「三段論法ではなく、単純な直観」と述べています。
「考えている私」は、いる。では、「私」って何者?
「考えている私は、いる」と言えるところまで来ても、また「あれ?」となります。
自己紹介で、名前や仕事や出身地を言うことはできます。でも、それらはあとからついたものです。全部とっても、いまこうして考えている「私」は、います。その「私」は、結局何者なのか。
デカルトは、この「私」をまず「考えるもの」として捉えます。ただし、それが結局どんなものなのかという問いは、すぐには片づきません。デカルト自身、第2省察のなかで、この「私」が何であるかはまだ十分に分かっていない、と述べています。
この確実さには、時間の制限もあります。デカルトは、もし私が完全に考えるのをやめたら、私は完全に存在しなくなるかもしれない、とも書いています。「考える」(cogito)ことが保証するのは、「いま、考えている」間の存在。その先は、このあとの課題として残ります。
この言葉は、どの本に書いてある?
そもそも、この有名な言葉はどの本に書いてあるのか。
百科事典によると、「我思う故に我あり」という決まり文句そのものは、『省察』には明示的に出てきません。出てくるのは、次の2冊です。
- 『方法序説』(1637年、フランス語): 「je pense, donc je suis」
- 『哲学原理』(1644年、ラテン語)の第1部7節: 順序立てて哲学する人に、最初に現れる、最も確実なものとして登場
『省察』(1641年、ラテン語)は、同じ考えを「私はある、私は存在する」という別の形で述べています。「我思う故に我あり」は、デカルトのひとつの言葉というより、同じ考えを、本ごとに別の形で言ったものと考えると分かりやすいです。
あなたなら、何を疑う?
デカルトの方法は、確実な土台を探すための手続きです。ふだんの「常識を疑う」とは、目的が少し違います。それを承知のうえで、デカルトの考え方を身近な話に置きかえて、なぞってみます。
- 「常識」だと思っていることのうち、疑えるものはどれか。
- それを疑っても、どうしても疑えないものは残るか。
答えは人それぞれです。確かだと思っていることを一度疑ってみる、というデカルトの歩き方のほうが、答えより大事かもしれません。
まとめ
- 「我思う故に我あり」は、感覚、夢、数学、欺く者へと進む方法的懐疑の底で見つかった、疑えない出発点
- 騙されている間も、考えている「私」は、いる
- 「ゆえに」が推論か直観かは、研究者の間でも議論がある。デカルト自身は「三段論法ではなく、単純な直観」と述べている
- 確実になったのは、いま、考えているものがいるということだけ。その「私」の中身は、これからの課題
- この決まり文句は、『省察』には明示的に出ず、『方法序説』と『哲学原理』に出る
見間違いも、夢も、「確かだ」を揺らします。でも、その揺らぎに気づいている「私」は、いま、ここにいます。デカルトは、そこからもう一度、考え始めました。

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